大学のトイレに入ったら、僕と入れ違いに出ていく人がいた。トイレの個室で水が流れている事から推測するに、今出て行った彼はウンチをしていたのだと思われる。ここまでは何てことの無い日常の1シーンでしかない。人間は基本的にウンチをする生き物であり、「ウンチをしている人を見た」なんて、ブログを通じて世界に発信する出来事ではない。ただ、そのトイレには明らかにおかしな点があった。水が流れている、さっきの彼が使っていたと思われる個室から、強烈なお花の匂いがするのだ。
まさか。と思う。
彼は、出したのか?
おしりから、お花を。
いや、ありえないだろう。
おしりからお花を出すのはアイドルだけだ。
うちの大学にアイドルが通っているなんて話、聞いたこと無いぞ。
僕は今大学4年生で、4年間も同じ大学に通っていれば友達もできる。大学の無い日にわざわざ会って遊びに行くような親しい友達は数えるほどしかいないが、大学構内で会ったら雑談をする程度の仲の人ならたくさんいる。大学にアイドルがいるなんて事実があるとすれば、その情報は友達のネットワークのどこかに捕捉され、雑談の形で僕の耳に入って来るはずだ。しかし、そんな話は聞いたことが無い。「大学にアイドルが通っているが、僕の耳には届いていない」と考えるよりも、「アイドルは通っていない」と考えるほうが自然だろう。
だから、さっきすれ違った彼はアイドルではない。少なくともそう考えるのが自然な考えだ。にも関わらず彼はおしりからお花を出していた。矛盾している。
「彼はアイドルではない」にも関わらず、「おしりからお花を出した」。一見矛盾している事象のように思えるが、この矛盾を解決する説明が1つだけあることに気づいた。そう、彼はウンチをしている間にアイドルになったのだ。
つまり、事の顛末はこんな感じだ。秋田の田舎町に生まれた彼は小学生の時にテレビで初めてアイドルを目にし、そして釘付けになった。カッコイイ衣装に見を包み、輝く笑顔で歌って踊るアイドルたちの姿を見て、雷に打たれたような衝撃を受けた。そして、いつかは俺もアイドルになりたい、と強く願った。
しかし運の悪い事に彼の生まれは田舎町。近くにアイドル事務所などあるはずもなく、アイドル事務所のある東京に行くための電車すら通っていない。農家の両親はアイドルへの理解が薄く、「アイドルになりたいから子役をプロデュースする教室に通わせてくれ」と頼み込んでも本気にはしてくれなかった。
だが、それで諦められるほど彼のアイドルへの憧れは弱くなかった。絶対にアイドルになってやる、誰が何と言おうと俺はアイドルになる、と思っていた。そのためのプランも立てた。この田舎町にいる限りはアイドルになる事は不可能だ。だから、とりあえず東京で一人暮らしを始める必要がある。東京の高校に行くのは両親が許してくれないだろうから、チャンスは大学に入るタイミングだ。適当な理由で両親を説得し、東京の大学に通う。そして大学に通いながらアイドル事務所にも足を運び、ずっと憧れていたアイドルになる。これが彼の考える最短ルートであった。
このプランを立ててから、彼は勉強に精を出すようになった。彼の住む田舎町では大学に進学する人は少なく、高校生の多くは卒業と同時に就職する。大学に進学する少数派も進学先は県内の大学であり、東京の大学に進学する人数はさらに限られる。そのような事情があったので、両親を説得するには高い成績を保つ必要があった。勉強漬けの毎日が辛くなる日もあったが、投げ出す事は一度もなかった。それほど、彼の中のアイドルへの憧れは強固なものだった。
時は流れ2022年。彼は大学生になった。それまでの努力が実り、無事第一志望の大学に合格できた彼は、大学進学を期に上京を果たした。
引っ越しの翌日、彼は荷ほどきもほどほどにアイドル事務所のオーディションに応募した。この事務所は一次選考として書類選考、二次選考として歌とダンスの選考、という選考フローをとっている。オーディションへの応募書類には志望理由などを書く欄があり、その応募書類を使って書類選考が行われる。
応募書類には「憧れのアイドル像」「アイドルになりたいと思ったきっかけ」「あなたが思う良いアイドルとは」などの質問項目があり、質問文こそ違うが全体として「アイドルへの憧れはどれくらいか」を判断するものとなっている。書類の書き出しこそ自分の熱意を伝えられるかを心配に思っていた彼だったが、小学生の時から内に秘め続けた憧れを綴り始めたペンは書類を書き終えるまで止まる事はなかった。その内容も見事なもので、選考官は感嘆のため息を漏らしつつ食い入るようにして読んだという。一次選考の結果はもちろん合格であった。
数週間後、最終選考である二次選考が行われた。実際にアイドル事務所に出向き、歌とダンスを披露する選考である。今日で夢のアイドルになれるかが決まる大事な日であったが、選考を終えアイドル事務所から出てくる彼の顔は曇っていた。考える時間がたっぷりあり、書き直しもできる書類選考と違って、歌とダンスのオーディションはぶっつけ本番。緊張がパフォーマンスに大きな影響を及ぼす。そんなことは分かりきっていた。だから何度も練習した。ただ、アイドルになりたい願望が強いからこそ、どうしても緊張してしまい、その緊張が振る舞いに現れてしまった。
オーディションを終えたその日から、何をしても手につかない日々が続いた。講義を受けていても遊んでいてもバイトをしていても、いつも頭の中ではオーディション中のぎこちない動きがフラッシュバックする。そして面接官の「結果は追って連絡しますのでお待ち下さい」の言葉が脳内で反響する。
落ちていたらどうしよう。その不安は精神にも影響を及ぼし、毎日のようにお腹を下していた。その日も急な腹痛に襲われトイレに駆け込んだ。
用を足している最中、どこからかお花の匂いが香ってくることに気がついた。芳香剤か何かの匂いかと思ったが、それにしては匂いが強すぎる。まるで自分の股下から直に香ってくるような――
股下をふと見た時、彼は飛び跳ねそうになった。なんと、排泄物しか入っていないと思いながら目をやった便器の中にお花が入っていたのだ。同時刻、アイドル事務所で彼をアイドルとして採用する書類に判子が押された瞬間であった。その瞬間から、彼のおしりから出てくるものは排泄物からお花に変わった。チューリップにパンジーにコスモス。さらに力むとサクラが出てくる。喜びのガッツポーズをすると思わず腹に力が入り、おしりからアサガオ、ヒマワリ、キンモクセイが出てきた。
ずっとなりたかったアイドル。ずっと夢見ていたアイドル。ずっと追いかけていたアイドル。そんなアイドルに、ついになれたんだ。便器の中の満開のお花がそれを証明している。おしりからお花を出すのはアイドルだけだ。俺はアイドルになったんだ。
お尻に付着したアジサイの花びらをトイレットペーパーで拭き取った彼は、満面の笑みでトイレを後にした。
彼が出ていったトイレは、お花の香りで充満していた。